−5− 陶器埋めた異国に思い馳せ


萬吉郎の晩年

 半泥子の萬吉郎評。咸平侯爵と半泥子なら雨が降っても十日や二十日、話だけで暮らせる。萬吉郎氏のコレクションは、市場価値を問題にしていないだけあって、後世求めんとして求め得ざるもの。金儲け半分、道楽半分の愛陶家は萬吉郎氏の蔵に入る資格なし。また朝鮮人との関係について、「聡明で、下の人に憐れみ深い若主人に仕えて、双方が信頼しあっている様子はよそ目にも嬉しい」。
 半泥子がここまで書いた山田萬吉郎も、歴史の大きな波には抗うこともできず、昭和二十年秋、すべての資産を朝鮮に捨て、家を閉じ、蔵に鍵を掛け、拝み、特別大事な焼物数点を土蔵近くの畑の片隅に埋め、咸平の丘に建つ父と母の墓参りをし、そのそれぞれをスケッチに残し、リュック一つで追われるように日本に逃げ帰った。そこに待つていたものは戦後の窮乏生活と、貴人ゆえの経済感覚の欠如と見果てぬ夢とが引き起こす事業の失敗と、文筆で認められぬ煩悶、焦燥、そして諦めであった、と思われる。昭和十五年、半泥子に相談のうえで移築した、彼が愛し愛し、しかし家族の誰もが愛さなかった古い、不便な家を離れず、最後まで筆を離さなかった萬吉郎の透明な目は何を見続けたのであろう。晩年「数えられるものなんか財産じゃないよ、金のことなんかグチャグチャ言うな」と潤
二氏にいい、臨時収入のあった潤二氏に金を出させて先祖代々の墓を建てた萬吉郎。
 昭和五十九年、萬吉郎は七十八歳にして奥さんのヒデさんに先立たれたのを期に、二人で長年作ってきた短歌、俳句を冊子にまとめ始める。萬吉郎の作だけで二千四百首あるという。八十二歳で自撰歌句集抄という自筆の冊子が完成。

 萬吉郎の歌。

  何事も忘れ去らるる世の中に面影残す言の葉の道
  世にいづることもなくしてすぎにけり六十年は夢の間にして
  みたされぬのぞみもあまたありつれどたべる食ありねむる家あり
  雑然と本や書類のちらばれどこころ楽しきわが部屋の中
  虫が喰うか腐りゆくかはしらねども住みここちよき古き家かな
  から国の雪のあしたに鴨追いし若き日のこと思い出さるゝ
  少年の昔にかえる心持するゴンドラの歌さすらいの歌

 奥様の句から二つ。

  酉の年明けてうれしや喜の祝い
  鴬の初音をきくや床の中

 潤二氏とお会いしてから三カ月も経たない五月の末、津文化協会主催による講演会「半泥子と山田萬吉郎」をやらせていただいた。その二週間後の六月十五日には、山田潤二さん、金容石さんほか半泥子に熱心な方々と韓国全羅南道に渡り、咸平の山田家の跡を尋ね、初代萬吉郎夫妻の墓を探し、半泥子の焚いたハビョリの窯をたずね、半泥子がみたと同じ六月の、美事に耕作し尽くされた望雲半島の風景のなかに私たちは立った。その旅の成果はあまりに大きく、深い。正に国境と時代を超えて伝わるもの、人を幸せにするものが何なのかを見事に証明する旅であった。その報告を兼ねて、再度「半泥子と萬吉郎」について皆さんにお話をしたい。

 拙い歌ながら、萬吉郎氏の霊に捧げてこの稿の結びといたします。

  国破れリュックひとつで逃れかへる咸平の地に陶を埋みて
  公爵と呼ばるゝ君は貴人にて資産は失せぬ宇治木幡住
  朝鮮の古窯に遊ぶ夢をみて《三島刷毛目》とつぶやきて逝く

(完)

 (この稿は、平成十年五月二十九、三十の両日、津リージョンプラザ・視聴覚室で開かれた文化講演会「川喜田半泥子と山田萬吉郎」(主催津文化協会)の内容を講演者自身がまとめたものです)


-4-幾千年泰然と残る石墓