−3− 陶磁器界の偉人と絶賛
山田萬吉郎には、朝鮮の焼き物についての研究を中心とした大変な量の著作があるが、ここでは彼の遺した「務安日記」の昭和十年から十五年にかけての一巻を取り上げる。この日記からわかることをざっと拾ってみよう。まず陶磁器関係の登場人物の多さに驚く。当時岐阜県陶磁試験場の技師で絵の上手だった加藤土師萌(のち陶芸家)が、泊まりがけで咸平の萬吉郎の蔵に入り込み、すこぶる熱心に写生に写生を重ねたのを始めとし、加藤灌覚(朝鮮総督府の博学)、河村喜太郎(蜻山の弟、京都の作家)、鈴木恵一(学芸書院)、田中明(朝鮮総督府)、小山富士夫、中尾万三(薬学博士、ロート目薬の発明、中国陶磁の研究)、水町由三郎(京都陶磁研究所)、広田松繁(壷中居)、奥田誠一(東洋陶磁研究所創立)、尾崎洵盛男爵(陶磁研究)、満岡忠成(陶磁学者)、前田幾千代、奥平武彦(京城大学教授、陶磁学者)、浅川伯教(朝鮮陶磁器研究。半泥子曰く、朝鮮に於ける焼物の神様)、浅川巧(山林技師なれど朝鮮人と朝鮮文化をこよなく愛して朝鮮の土となった。兄伯教と共に柳宗悦らに強い影響を与えた)、松平義明(東洋陶磁研究所、半泥子の娘婿になる人)などなど。 山田萬吉郎はこの間、半泥子の居宅である千歳山へ最低五回は来山した。時には夫婦揃って来山し、ロクロを回したり町で宴会して貰ったり。東京には度々行っていて、焼物関係の学者や研究者に会い、会合にも出、ときには朝鮮の焼物について講演もした。朝鮮へ来るなり初対面の萬吉郎氏を評して「山田さん貴人だ」と言った中西千賀の家にも泊まっている。どこもかしこもピンクのタイル、誠に華麗な浴室に、真っ黒けの中西千賀が入っていた、と家人に漏らしている。「山田さん貴人だ」の発言が、半泥子の「咸平侯爵閣下」と繋がっていくことは断るまでもない。 萬吉郎は半泥子に会う十カ月ほど前、当時「焼もの趣味」に「泥仏堂日録」を連載していた半泥子の風評を聞いて、加藤唐九郎のような人と付き合っている半泥子に、その関係不審、とはっきり書いている。「焼もの趣味」の編輯人鈴木恵一にも困っている。そして二週間、作陶や窯焚きにベッタリとつきあって、予想と異なり「とても面白かった。単なる焼物好きではない。毎日色々と話を承った。処世上も大いに参考になることが多かった。本年六十歳、その気力の若々しさと、自ら事をなす実行の力に至っては感服のほかなかった」と書き、既にその年の初め頃、加藤唐九郎と半泥子が仲たがいしたことを知って「さもあるべきだ」と書き、「温和な中にも厳として犯す事の出来ぬ威厳がある。唐九郎のような男にわかるはずがない。私は偉人として尊敬した。半泥子さんも喜んで滞在された。恐らく陶磁器関係で私の知った中では一番偉い人だと思った」と日記に書いた。そして事実、半泥子は鈴木恵一とも後々不和になる。 半泥子の作品集「六十六名碗鑒」の三割を占める、愛用の咸平の土。これは全て萬吉郎が咸平から、馬鹿大将土とか新馬鹿大将土とか名前をつけて半泥子に送ったもので、この土の耐火度はゼーゲル三十一番、千六百九十度である、と朝鮮総督府の陶磁試験場へ萬吉郎が依頼した試験で、半泥子が朝鮮に来た一年後の昭和十三年には結果が出ている。いま津の近辺で一番耐火度の強いと云われる信楽の土のカタログを見ても、この千六百九十度というのはたったの一種類、白蛙目の漉し土しかない。カタログの説明では、単味で使うと水が漏れて駄目、とある。私が近所で掘って使っている土はこれに近い土だが、五日ほど焚いたのではジャジャ漏り。最近は焼き締めで八日、釉物でも六日ほど焚く。このぐらい焚いてもまだ漏れる。半泥子はそんな土を三十時間で焚いている。半泥子の茶碗がよく漏れる、黴びる、と言われるのは此の辺りの問題か。 萬吉郎は朝鮮の焼物の数々、その多くは下手物と呼ばれた、貴人用ではない高麗時代の焼物を半泥子に贈り、半泥子は自分の茶碗をいくつも贈った。半泥子は萬吉郎の贈る安価な、下手物とされていた焼物をたいそう喜び、市場価値とはまったく無関係に、自分がよい、大事と思ったものを集め、ていねいに整理している萬吉郎のコレクションの仕方(思想)を絶賛した。それこそが《物への深切》である、と半泥子はたびたび書いている。萬吉郎からの贈り物の中には「此のどら鉢と同形の物にて蛸の絵付あるもの李王家博物館に蔵す」と半泥子が箱書した、正に銅鑼のような形をした高麗ドラ鉢もある。直径四十センチ近い。金同洙先生に教えてもらったのであろう、箱書には《世須天弥阿》とある。セステヤ、ソウルの金容石さんのお教えで判明、洗面器とでも訳しますか。黄色く上がった青磁釉。十二、三世紀頃か、自信なし。いま(財)石水会館所蔵。稀品にして名品。ものすごく魅力的な物である。(つづく) |
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