−2− 納得のゆくまで時間かけ
|
藤本木田と云う人が発行元になって昭和十八年、「半泥子六十六名碗鑒」という誠によい作品集がでた。戦前の半泥子茶碗の総決算みたいな作品集である。そこに登場する茶碗を土別に集計すると、ちょうど三割が朝鮮全羅南道咸平の土で占められている。 さて昭和十二年、半泥子の朝鮮での窯焚きは実際どんなものだったのか。窯場から車で三、四十分の距離があったと思われる奈里の山田農場宿直室に、山田萬吉郎、金同洙先生、山田家使用人喜田幸三さん、炊事の朝鮮人のおかみさん、それに中西千賀らと二週間滞在して荷苗里窯に通った。 何故ハビョリの窯を選んだか。そのころの朝鮮の窯は瓶を焼く蛇窯(穴窯)か、既に日本の焼物の影響を受けている窯かで、半泥子は興味なし。そんな中で荷苗里窯は白磁の庶民使いの飯茶碗を焼いている数少ない窯、と朝鮮総督府の田中明氏に教えられた。このハビョリの窯は既に前年の七月から廃窯になっていて、屋根もなく、半泥子が行ったときには窯に穴が空き、乞食がニュッと足を出していた。窯を直せる朝鮮人の爺さんがいたので、三日間で登り窯の三袋まで直せ、と云うと四円呉れ、と云った。あまりに高いので萬吉郎がびっくりしていると半泥子は、その《高いのが面白い》と云って、うまく焚けたらあと一円やる、と半泥子。 爺さんは男四人を使ってほぼ一日で、型枠も使わないでアーチの窯を積んだので、半泥子も萬吉郎もこれには大層感心した。半泥子はカルチャーショックを受けた。窯場の応援には金先生の手配で、近くから陶工を二人呼んだ。薪は窯のある望雲半島だけでは足りないので、近くの島からも取り寄せた。薪の集め方。道端で長老が朝鮮人を呼び止め、薪をこれこれ持って来い、そんなに無い、無くても持って来い、これで終わり。ちゃんと集まる。 窯の形や寸法、それに焚き方はどんなだったか。登り窯の全体の長さは六メートルから七メートル。天井は高いところで一メートルちょっと。窯の勾配は非常に急傾斜。そこへ殆どが茶碗で三百個入れた。千歳山にある登り窯の一袋分の数しか入らない。地面に陶枕を置き、その上に茶碗五六個重ねて入れるだけ。窯の上の方はガラガラ。こんなことで焼けるのか、と半泥子は訝る。茶碗を重ねて入れるとき、朝鮮人の嫁さんたちがあっと言う間に茶碗の底に《目土》をつけるので、半泥子も萬吉郎もまたまた感心する。 素焼きは応援の二人にして貰い、朝から釉掛け、窯詰めが済んでお昼。午後ドライブして夕方四時半火入れ、アブリ焚きは陶工に任せて六時に宿舎に引き揚げる。半泥子と萬吉郎は夜中に起きて、萬吉郎の運転で窯場に向かう。窯の見える丘に着くと窯は轟々と燃えて、半泥子曰く《まるで神代さながら》。朝方、二の間まで焚き終えると、宿舎に帰って飯を食い、昼寝をし、良く焼けた夢を見た。最後の一袋分は任せて帰ってしまったのである。半泥子の記録から推定すれば、全体の焼成時間はたった十四時間から十七時間。 翌朝窯出ししたら皆よく焼けていたが、気に入る物はなかったと半泥子は書く。釉がテカテカ。窯を焚きあげても、あちこちにある焚口の蓋をしないというのだから風がスイスイ入る。あっという間に冷める。あっという間に冷めた焼物は釉がピカピカに光る。それに加えて使った釉が石灰釉だから、ピカピカだけじゃなくてヌメヌメの感じに上がる。半泥子好みの渋い上がりは全然ない。 しかし、この窯焚きの収穫はとても大きかった。日頃は銀行や他の諸々の雑用、千客万来の合間を縫って焼物をやっている。それが郵便は三日に一度、電報はなし、電気はなし、勿論電話なんてものはなし。毎日ランプの火屋掃除。日待ちの気分を味わっている。雨が降れば金先生に朝鮮語を教わるか、みんなに教えたトランプ遊びで大騒ぎ。負けそうになると半泥子は、奥の手を使ってチャラにした。朝夕には近くの散歩。奈里の子供たちは内地(日本)の子より行儀がよい。多島海に面したこの望雲半島の景色は日本でもなかなか見られないようなもの。ちょっと時間が出来ると船で島巡り。そんな中で、土のこと、釉のこと、窯のこと、いろいろゆっくりと考えることがあったであろう。物を作っていくにはそういう時間がとても大切。半泥子は戦後に至るまで度々、朝鮮の窯焚きは我が人生の最高の思い出であり、心の滋養であった、と書き残している。そこには、損得抜きで半泥子の窯焚きを応援する人達がたくさんいてくださった、と云うことでもあり、半泥子に、回りの人達を楽しく動かし、幸せにしてゆく、はっきりした人生哲学と、その哲学から派生する、大きな大きなプラスのエネルギーがあった、ということでもある。(つづく) |
| -1-時代超え、焼き物で結ばれた縁 | -3-陶磁器界の偉人と絶賛 |