−1− 時代超え、焼き物で結ばれた縁


半泥子朝鮮に渡る

 六十年前の昭和十二年六月、まだ日本が韓国を支配していた時代、吾祖父川喜田半泥子は朝鮮全羅南道に渡り、すでに廃窯だった荷苗里窯を直させ、一窯焚いた。その窯焚きの世話一切をしたのが当時、咸平という村に住み大農場を営んでいた山田萬吉郎という人。
 半泥子は内地に帰るや否や「焼もの趣味」という雑誌に長文の「朝鮮窯焚きの記」を書き、萬吉郎も同じ号に「半泥子を迎ふ」を書いた。当時数えで半泥子六十歳、萬吉郎三十六歳。二人とも寅年生まれであったのも何かの因縁かもしれない。
 日本が名実ともに韓国を併合したのが明治四十三年、その明治の末に琵琶湖の東岸から大枚三万円を握って朝鮮に渡った五十歳の男がいた。その名を山田萬吉郎という。昭和三年その初代萬吉郎は亡くなり、その跡を継ぎ、名前も継いだ長男がこの演題の山田萬吉郎である。
 私がこの山田萬吉郎と最初に出会ったのは平成五年七月、ある古書の入札会。半泥子が萬吉郎に出した数通の手紙。宛て先は別府温泉の宿気付け。驚いた。昭和十三年の礼状の最後の添え書き、《一年前は奈里にいた。雨の風情、カッコウの声など忘れられない》はナント、半泥子の愛妾中西千賀の字だった。もう一つ、宛て名が咸平侯爵閣下、となっている。なぜ農場主が侯爵なのだろうか。
 それから四年たった平成九年七月の入札会で、今度は小山富士夫の山田萬吉郎宛の手紙が出た。小山富士夫は半泥子と関係が深く、若いころは京都に居て陶芸家を目指した人であり、半泥子に頼まれて昭和八年に千歳山に窯を築いた人でもあり、加藤唐九郎に永仁の壷でまんまと一杯食わされた人でもある。宛て先は宇治市木幡の山城ゴム工業所で十通ほど。中で一番興味をひいたのは昭和二十一年の手紙、「物を売って百姓をして暮らしては如何」。
 続く時は重なるもので四カ月後の今年二月、昭和十八年に出版された山田萬吉郎の著書「三島刷毛目」が売りに出た。すぐ注文した私はなにかムラムラときて山田萬吉郎を追っかけだした。宇治市の電話帳ヤマダで総当たり。二つ目の電話に出られたご婦人「確かに義父は朝鮮にいました。半泥子と云うお名前なら義父から聞いています」
 電話の女性のご主人、萬吉郎の跡を継いでおられるご次男の潤二氏をお訪ねすると、朝鮮での半泥子との記念撮影や、焼物がいっぱい詰まっていた咸平の山田家の土蔵の写真や、萬吉郎の膨大な著作の数々、それに昭和十年代の萬吉郎の日記も出てきた。
 潤二氏のお話によると、父は昭和十四五年に家族だけ宇治に返し、一人咸平に残った。終戦の年も暮れようとするころ、リュック一つで幽霊のように帰ってきた。宇治の家は昭和十五年、故郷から持ってきた二軒分の古屋の再築で、戦後はずっと一緒に暮らしたが、何がよいのか、焼き物の事と書き物ばかりで・・・おやじがやっていることに全然興味がなかった。なにしろ霞を食って生きてるような人で、お人よしで、人に乗せられて事業もしたけど大失敗。後始末が大変だった。
 父は平成三年に九十歳で死んだ。自分の業績を最後の最後まで認めて貰いたがっていた。死の直前「三島刷毛目」とハッキリ口に出した。
 半泥子の窯焚きの記によく出てくる金同洙先生の話になったら、金先生のご子息が戦後、宇治木幡の家に来たことがあり、賀状も確かにあった、と潤二氏はおっしゃる。そのご縁でソウル在住の金容石氏から戴いた手紙。「山田家と金家とは三代に亙って真に親密な信頼関係がある」と前置きし、目撃談として「萬吉郎叔父様は小作人(朝鮮人)を家族と全く同様に迎え、食事をさせ、土産をもたせ、夫婦できちんと表まで送り、深々と礼をした。どの小作人にも《一視同仁》で接していることを確認、韓国の悪徳地主とは月とスッポンの相違があり、誰にでも笑顔で接している萬吉郎叔父様を心から尊敬するようになった」、「終戦直前に萬吉郎叔父様は、金家の将来を心配して山田農場の土地の一部を父に名義変更するとまで申し出た」、「土蔵を見学したが珍貴な古陶器が二階までぎっしり」で、「叔父様の朝鮮古陶器の研究は本格的で、代表作《三島刷毛目》はボストン美術館付属図書館にも入っている」とあった。韓国の方の日本語による手紙が、その字、内容、文章とも、もう現代日本人の書き得ない 、誠に立派なものであった。そしてそれは、人間の優しい気持ちが、国境も時代も超えて、人を幸せにしてゆく証しでもあったのだ。(つづく)


-2-納得のゆくまで時間かけ