二代目半泥子の誕生を祝う
千早 耿一郎

 川喜田敦さんが焼き物をはじめてから、二十年余りになる。その作品はあたたかく、重厚である。半泥子と同様、敦さんの作品には、茶碗が圧倒的に多い。
 茶碗は、いうまでもなく茶を喫するための道具である。コーヒー茶碗とちがい両手で持つ。茶の温かさはもとより、茶碗自体の暖かさをじかに感じとることができる。おのずから、作者の心の暖かさも伝わってくる。敦さんの茶碗には、そのような暖かさがある。
 最近の敦さんの半泥子への打ち込み方には、なみなみならぬものがある。半泥子作の水指「慾袋」の謎を追い求め、その漆継ぎをした人を探しだして、大震災直前の西宮にその人を訪れたり、また朝鮮半島の辺鄒の地に出かけ、半泥子の窯焚きの跡を探ったり・・・・・・。
 その敦さんが、祖父である半泥子の名を襲われるという。祝福するとともに、これはたいへんなことだぞ、とも思う。もとより敦さんには、その覚悟があるにちがいない。
 半泥子は偉大なるしろうとであった。半泥子がもっとも崇拝した光悦もまた、陶芸に関してはしろうとであった。しろうとであってこそよく作品を作ることができる、と半泥子は言った。くろうとはおのれ欲せざるに作り、しろうとはおのれ欲してはじめて作る、と。
 くろうとでも、シロート精神を失わなければ、すぐれた作品を作ることができる。半泥子が終生追求した乾山は、しろうとから発し、のち陶芸を業とするようになったが、終生シロート精神を失わなかった。
 これらの人に共通するのは、精神の高貴さであり、偶然の歪みや疵もすべて美のなかに取り込むおおらかさと、貪欲さと、自由の精神とであった。そういう半泥子の精神の輝きを、きっと二代目も継いでくれるにちがいない。
(『おれはろくろのまわるまま―評伝川喜田半泥子―』の著者)


川喜田 敦さんの決意
森本 孝

 二十一世紀の新春を飾る個展を開催されるに当たって、川喜田敦さんは祖父・半泥子の号を引き継ぐことを決意された。祖父・十六代久太夫、すなわち川喜田半泥子が、本格的に陶芸と格闘をはじめたのが昭和十一、二年、五十九歳の頃だから、敦さんが半泥子を襲名するのとほとんど同じ時期といえよう。
 半泥子の偉業を調査し研究して、一つずつ明らかにしていく敦さんの姿勢は真摯である。半泥子の果たした役割を顕彰しようとする敦さんを評価する人は、私をはじめ決して少なくないと思う。
 今日までの敦さんの道のりを拝見していると、半泥子に一歩でも近づくこと、それが彼の最大の課題であったように思われる。祖父・半泥子への畏敬の念も強く、一昨年、半泥子の足跡を訪ねる韓国旅行に同行した際、その熱い思いをうかがった。そのとき、半泥子襲名について、ずいぶん悩み続けているように想像した。それから約二年半が経過し、先日その強い意志を確認した。今回の半泥子を襲名するという決意は、半泥子との対決の一つの結果であるように私には思えた。
 近代陶芸史上だけでも巨大な存在であり、初代半泥子の業績は、語ろうとしても語り尽くせないほど大きい。そんな半泥子の号を引き継げば、以後初代半泥子と比較されてしまうのは自明のことであり、批判されることも当然ながらありうることであろう。苦難の道をあえて選択されたのである。でも、その意志は強固で揺らぐことはない。
 敦さんは陶芸について通じた方である。敦さんなりの展望と決意は明快なのであろう。絶対にそのはずである。重いものを背負いながら初代半泥子と対決し、着実に敦さんなりの回答をこれから展開されていくことであろう。皆様とともに、半泥子襲名をお祝いし、今後のさらなる活躍に期待したい。
(元三重県立美術館学芸課長、半泥子研究家)


ごあいさつ 〜半泥子襲号について〜

 作陶を始めた当初、さほど大きな存在ではなかった祖父が、この二十年、作れば作るほど、祖父の遺したものを見ればみるほど、また表現について考えれば考えるほど、私の血に、肉に、脳に浸透し、重くのしかかってきました。それは、とてつもなく大きな姿でした。
 あるときは全く歯の立たない存在として、あるときはソリャナイダロウと呟きながら、そして多くは勇気づけられる存在として。もし祖父の作品が現代の陶芸界になかったら、私が作陶の道に入ることもなかったでしょうし、入ったとしても、その道をまっとうし得なかっただろうと思うほどです。
 この度、私の人生の軸足を、作陶へ向けてさらに一歩大きく踏み出すのを機に、実力、人間としての大きさ、修行、そのどれもが至らないのを承知のうえで、祖父の号「半泥子」を継ぐ決心をいたしました。至らないがゆえの襲号です。が、もちろん、この二十年、祖父と対話し続けた結果の自負でもあります。
 襲名という馴染みのうすい行いは、皆さんには奇異に感じられるでしょうが、私の中では、この十年来の必然でありました。
 祖父と同じものを作ろうというのではありません。名前がなにかを導く、そのことに頼ろうというのでもありません。私は「人生の師」と仰ぐ何人かの方の存在を折に触れ心に留めていますが、私にとっての半泥子は「師でもあり反面教師でもある」という複雑で難解な存在です。
 最近とみに「芸術家」としての評価を高くしつつある半泥子を厳しくみつめ、私は「ワタクシの作陶の道」を歩む決意をあらたにしています。そのことを祖父もきっと喜んでくれるでしょう。格闘する相手は大きくて深いほどよく、その格闘から生ずる多難は、物作りにとって、必ずや稔りを生むでしょう。表現者は、多難を稔りに変えてこそ、表現者であると信じています。
 半泥子に近い方々の違和感、心配、複雑なご心境も察するに余りありますが、私のなかの強い自負心と多くの方のご期待に、重責を覚悟の上で決意いたしました。長い目で見守っていただくようお願い申し上げます。 今回の展観は、二十世紀最後の秋に焚いた新作だけで構成しました。どれも六日間の穴窯による焼成に耐え抜いたものばかりです。新世紀最初の個展の場を与えてくださった津松菱百貨店、ここまで私の作陶を支えてくださった多くの方々に心から御礼申し上げます。
 今後とも変わらぬご指導、ご鞭撻、お引き立てのほどをお願い申し上げます。
    
平成十三年正月 半泥子襲号記念展に際して
二代半泥子 川喜田 敦


新春・新作・新世紀
半泥子襲号記念
「川喜田敦の焼物」

会場 津松菱百貨店六回催事場及び美術ギャラリー
    三重県津市丸ノ内4-10
    (代表) 059-228-1311

会期 平成13年1月10日(水)〜15日(月)

 このたび、友人の川喜田敦さんが、お祖父さんの号半泥子を継がれた記念の展覧会を京都で催される。
 ご承知のように川喜田半泥子は、東の魯山人、西の半泥子といわれる近代陶芸史上のずば抜けた存在だ。
その名を継がれる彼の、半泥子への愛情と自負と決意は大変なものだろうと推察もするが、同時に、ソリャ大変デッセ、との思いもある。
 半泥子といえば茶碗。どんなものが陳ぶか。二代目の半泥子として、気合の入ったものを披露してもらえると期待している。


北村美術館館長 木下 収