−6− 青海波の金蒔絵
|
定本の解説については、定本を出されたとき大変ご高齢であったし、半泥子を尊敬するあまり、ちょっと夢を見られたんだと思う。それはそれで致し方のないことだ。ただ物が物だけに、正すものは正しておかなければならないということをご理解戴きたい。 「慾袋」の辿った道を振り返れば、それだけでも一つの物語ができる。 大割れだから誰かに上げることも出来ず、五年近くほっておいて直してみたら大傑作。いま蓋もつき、箱にも入って代表作として残っているのも、楽山堂さんが《返す》という決断をしたからこそ。矢橋氏に、お使いいただくのならどうぞドウゾ、しかし満金を積まれても売り買いなんてとんでもない、そんなことならお返しする、という美事な決断。 楽山堂に在ったとき「慾袋」は箱無しだった。そのまま西宮にあったら今頃は土に還っている。それ以前に「慾袋」が「慾袋」として今日存在する大きな要素、正面を飾る青海波の金蒔絵は楽山堂の判断でなされた。半泥子の注文は銀ベタ直しだったと言う。考えに考えて青海波にしたという楽山堂の感覚がなければ、今日の「慾袋」はない、と断言できる。 さて、玄関にぶら下がっていた半泥子の横額「植咬」は、その後どうなったか。差し上げた私の水指、作品集V第8番の作品はどうなったか。箱にも入らず西宮に在った半泥子の大傑作、大水指は・・。 それよりなにより、大垣の矢橋さんが私にコピーを渡さず、三十年後にアンナ葉書が出たとしたら・・。もう誰も生き証人はいない。その時「慾袋」は、一体どんな扱いを受けるであろうか。 五島美術館の「破袋」は、関東大震災で火事にあいながらも助かって重文になった。半泥子の「慾袋」も、怪物の大水指も、楽山堂夫人も、未曾有の大災難を見事、無事乗り切った。乗り切らなかったのは私の水指だけである。運命の力、運の凄さ、もって生まれた星。物の、人の運命と言うものを考えざるを得ない。天は何の味方をするのか、と。 矢橋亮吉氏が何のおつもりか、私にコピーをお渡しになった、その何でもないことからこれだけの事が出て来た。楽山堂さんにお会いできた。私はとても大きな生きる力をいただいた。いつお会いしても清々しい。その清々しさの根源は抜群の頭の良さ、責任感の強さ、損得でなく筋道で生きて行く姿勢、祈りの心、つましい暮らし、打ち込める日々の仕事。控えめで遠慮深いが、真正面から生きている。人間生きて行くうえで大事なことは何か、教えられる。本当にありがたい出会いだった。 何の苦労もなく生きておられる訳ではない。ご自身よくおっしゃるように、照る日、曇る日、いろいろお話しを伺えば土砂降りの日もある。ストレスで声も出ないからと電話に出られない事もある。そういう中で清々しくやっておられる。だから気持ちのいい人が回りにたくさん集まっている。世の中には地味だけれど、こういう素敵な方がたくさん隠れている。 そしていま色々の資料をまとめてみると、半泥子の茶碗は「楽山堂」夫人との協同(協働)作業の産物だったことが見えてくる。 その楽山堂さんはいま、大震災から丸三年を本当に簡易な仮設住宅でしのぎ、もうこれ以上この家では危険だと言われて、また今回、同じ手の仮設住宅を新しくされた。夏は四十度を越す。冬は・・。その中で来る日も来る日も、九十二歳の楽山堂さんは漆仕事を続けている。小さな仮設の家では持ち込まれた陶器を置く場所もない、アイスイマセンガと断ることもある。美術館の開館に間に合わさなければいけない仕事も来る。ただ仕事机の前に座れば、何もかも忘れられると。 早くに死んだ兄夫婦に代わって自分の子供のように育て、お嫁に出した姪御さんとは、どうした縁か、通算すると六十年もいっしょに暮らすことになってしまった。もう九時ですよ、マダ九時デスカ、と阿吽の呼吸で。半泥子のまわりには、なぜこんな素敵な人がいるのだろう。 そして今、姪御さんは病に倒れ入院された。お二人ともお子さんはいない。近所の方はみな楽山堂さんに優しいが、それにしてもタッタひとりで、どうして暮らし、どう仕事を続けてゆかれるのだろう。
(完)
![]() 記 この稿は平成十年二月七日、津リージョンプラザ・視聴覚室で開かれた文化講演会『川喜田半泥子と楽山堂』(津文化協会主催)の内容を講演者自身が、今の時点でまとめたものです。 |
| -5- あなたの直しは日本一 |