−5− あなたの直しは日本一


金つぎの夢

 半泥子の茶碗にはやたら直しが多い。なぜなら他の陶芸家のように傷物を捨てないから。大きく割れてたら、呼び継ぎといって他の陶片を持ってきてでも直す。その取り合わせを楽しむ。少しでも疵がある、歪んでいると言って捨てていたら半泥子の焼物は一つも残らない。疵があるから面白い。人間でも同じ。これが半泥子の哲学。
 カタログや作品集から直しのある作品を拾うと十二%。千個焼けば百二十個直しに出る勘定。その直しをたくさん見れば見るほど、前回に触れた《共直し》は一つも無いだろう、ということに気づく。ここでも割れたものは割れたまま、ベタベタ塗って胡麻化すな、上辺だけきれいにするな、ゴマカスという精神が汚い、という半泥子の美意識。彼の用いた号の一つにソノママ「其飯」と書いてキハン。

 楽山堂さんの直しに関して四つの証言。
 @直しの材料を仕入れに京都へゆくと、店の人が「直しにこんなエエ材料を買う人はおらん」。
 A骨董屋さん曰く「今時あんな値段で直す人はおらん。あまり安いので大手の骨董屋さんは気の毒がって直しに出さない。私らのような小さな店は本当に助かる」。
 B楽山堂さん曰く「食べていかれりゃエエとおもてます。回りの知らんお方は私のやってることなんか、封筒張りの内職ぐらいにおもてはりますやろハハハッ」。
 C半泥子曰く「あなたの直しは日本一」。

 「楽山堂」へ出した半泥子の手紙は、阪神大震災によりその大半が失われたが、運良く小さい包み一つが発見された。半泥子三十二通、藤田等風二通、計三十四通が現存する。大きい方の一箱は土に還った。書簡の多くは昭和三十二、三、四年。三年間で二十通。半泥子の手紙の多くは巻紙墨書、絵入りで、直しに出た物の絵が描いてある。
 昭和二十二年九月。広永陶苑で初窯を焚いた年のこと「此前使ひの者、私の一番大事な秘蔵弟子の萩原と新米の弟子、坪島がお邪魔しました時、ご病気の由、帰りて申しましたから御案じ申して居ましたが、昨日藤田から伺へば元気らしかったとの事で安心しました。今の世の中格別ご大切になさい。私も七十になって今年初めて暑さに負けたのか、病気はしませんが何クソと思ふてテクテク何所へでも出かける私が、毎日オットセイのようにごろごろ寝転んでアー暑いなあ、といっては寒暖計ばかり見ていました。それで、茶碗作りを初めてから十二年間、今年の夏は初めて茶碗作りの気もなく過しましたが、昨今秋風が立ちましたから、又明日あたりから陶苑へ通ふて茶碗を作ろうと思うてゐます」
 昭和三十二年五月。京都仁和寺で行われた八十の祝いの茶会へのお誘いで「お茶席のマナーなどは私達も無茶苦茶で、面白く話して気楽に飲むのがマナーで、私達とご一緒に席に入れば気楽です。歯が抜けていても茶はのめます」
 昭和三十三年七月「フタが出来たら知らしてください。伺わせます坪島は私の愛弟子で、私より上手になりました。人間がよろしい」
 昭和三十三年?八月「六時頃土平が帰りました。そして皆よくして頂いて嬉しかったです。実に素敵です(みな絵入り)。これもとてもうれしいです。これも金つぎで出世しました。これも今度は大丈夫で、ススキが以前より気に入りました( 茶碗「すゞ虫」)。僕の好きな一輪生もこれで安心。これも上々、金つぎで生きました。大昔の金つぎのやうな味があって金つぎを見るだけでも充分楽しめます。貴方は名人です。長寿きしてください。ホントニアリガトウ(中略)今夜は金つぎの夢を見て寝ます。アゝアリガトウあなたは幸な方です。此位人を楽しませ喜ばせる腕前があおりだから」
 昭和三十四年七月。楽山堂と半泥子の異父妹を千歳山に招いたとき「お手紙拝見、水車女史とお出でになる由、お待ちしています。二十九日九時四十分上六発、中川十一時六分、津新町へ十一時二十分頃、千歳山へ十一時二十六分か三十分頃。歓迎。ゆかたがけの事、みやげもたぬ事。半泥子」
 昭和三十五年?八月略「私はあなたのつくろいが日本一と思ひますから私のヘタククソな茶碗も日本一になります」
 昭和三十六年四月。半泥子生涯の作陶数の証言(最後の手紙・死の二年前)「子供の頃から焼物好の私が昭和八年に千歳山に窯を築いて二、三萬作った。又広永で今迄に作った一萬斗りと合すと大分の数になる(略)無茶苦茶に作る茶碗の無茶法師、それで呑む人茶々無茶苦茶。半泥子。蓮の葉にたまりし水は釈迦の涙かありがたや、ところへ蛙がピョコト出て、それはわたいのしっこだよ、アッ東天蹈天(東の空、天を踏むように足踏みする、舞踊る)」。もう出せないという予感があったのか。内容も半泥子流の《人生の締めくくり》になっていて、楽山堂への別れと私は見る。(つづく)


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