−4− 自力で立ち向かう92歳


大震災「楽山堂」を襲う

 十七日早朝の不気味な揺れ。わが家はテレビはなくてもラジオはある。すぐ楽山堂のことを思った。楽山堂は戦前建ちの上品な杉普請、二階建。十八日夕方、西宮北口まで阪急が走るようになったとラジオが告げる。当座いるものを買いこんで十九日の朝でた。昼過ぎにはなんとか西宮北口についた。駄目かな?、大丈夫だろう、駄目かな、大丈夫だろう、そればっかり考えていた。
 駅から楽山堂へ向かう道筋の古い家はみなやられている。角を曲がると楽山堂がみえた。ある! 大丈夫だ!。玄関へ踏み込んだ。なんと映画のセットのように、残っているのは表側の一階部分だけ。二階建の部分が無い。空が見えてる。あっ駄目だ、と一瞬呆然となった。
 その時パッと目に飛び込んできたもの、無傷の大きな横額一枚「植咬」八十二半泥子花押。ウエルカム。アッケに取られ、呆然とした。そこへ何処からともなく幽霊のように姪ごさんが現れて「楽山は三時間も生き埋めになっておりました、助け出されて無傷で学校におります」。本当に奇跡としか言いようがない。言葉も何も出なかった。学校へ見舞えば、寝床の中で本を読んでいるとドーンときて、その一発で潰れた。姪御さんの上を飛び越えて反対側で潰された。梁の下になって、あと三十分はもたなかったと。
 お見舞いから引き上げる午後三時頃、クレーンに吊られて庭に白い箱が入った。生き埋めから出て来た人の多くは喚いたり、泣いたり。楽山堂さんは違う。表通りに立ち尽くして回りの状況をじーっと見回し、学校へ入るとアル手配をした。まだ回りでは埋まってる人をユンボで掘り起こしていた十九日に、貨物のコンテナが庭に二つも入ったのである。
 コンテナに住み、雨の日は傘を差して外のオマルで用を足した。二月の末には自力で十二坪の仮設住宅を建てた。回りの人は、あの人は一体どういう人だろう、と噂したという。以来三回の冬、三回の猛暑をこの仮設住宅に過ごし、毎日焼物の直しをし現在九十二歳か、矍鑠たるもの、誠に偉人と言わなければならない。
▼「慾袋」再検討
 定本解説通りとすると、古伊賀写は三本あることになる。「慾袋」は梶島一藻氏所蔵品、一本は金重家、一本は藤堂家だろう。その梶島慾袋が長く楽山堂にあったことになる。それが千歳山に帰っている。しかし終戦前後、直しにでたのは半泥子から。半泥子が梶島氏のものを勝手に楽山堂にやるわけがない。
 一九九五年名都美術館で半泥子展。そのチラシに「慾袋」のソックリさんが出た。どう見てもおなじ窯。監修の森本孝さんに、出所は梶島さん関係ですか、ソウデス旧蔵デス。添状、受筒ついてますか、ツイテマス。添状の文面はこれこれですか、ハイソウデス。梶島一藻蔵品はやっぱり別物だった。とすると今、千歳山に帰っている物は何になる?。
 これで二本までわかった。金重家のは目下所在不明。藤堂家にもあるとすると四本になってしまう。正面の大割れは青海波文様の蒔絵にせねばならぬほど大きかった。それを直しもしないで藤堂公にあげるつもりだったのか。定本解説の「慾袋」添状は、実は添状じゃなくただの参考品だったのに、添状としてしまった時から話がややこしくなったのだ。
▼五島美術館の「破袋」
 「慾袋」の本歌「破袋」は、半泥子の添状にもあったように大正十二年関東大震災にあい、このとき箱も古田織部の添状も焼失し、本体だけが残ったのだ。ところで今回、五島美術館に問い合わすと、「破袋」が名物ですか?、と逆に聞き返されてしまった。当然である。名物も大名物もそれぞれに定めがあるのだから。そのとき意外なお話も出た。「破袋」という銘など元々ない、勿論命名者などいない、と。その理由が面白い。
 東急電鉄の五島慶太が美術館を作ろうと高梨コレクションを買いこんだ中に、既に昭和三十年六月に「古伊賀水指」の名称で重要文化財に指定されていた、この古伊賀の水指があった。ところがもう一つ有名な古伊賀擂座の水指があって、これには以前から「破袋」という銘があつた。五島の古伊賀がもう一つの「破袋」より先に重要文化財に指定されたとき、文化庁アタリがもう一つの「破袋」と勘違いして、その旨マスコミに発表したので、以後そうなってしまった、ラシイという。
 もう一つ、半泥子が拝見した頃の「破袋」と、今の「破袋」の写真を詳細に検討すると、直しに関して違いがあるのが気になった。面一の金直しだったものが、大きな傷のところだけ深い溝状の直しにされ、金ではなくなっている。加えて、随所にあった細かい亀裂がきれいに直っている。これは共直し。共直しというのを一口でいえば、キズを隠す直し。
(つづく)


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