−3− 現役の直し屋「楽山堂」
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さあ、楽山堂を探さねば。 定本の編著者に立話ながらお尋ねすると「解説はあれでよい。楽山堂は西の宮? いや京都です。とっくに死んでいるでしょう」。 半泥子の弟子、坪島土平氏は不思議そうにコピーをみて、定本の解説をみて「慾袋、あれは千歳山です。この解説ちごとるわー。楽山堂はよく使いで行った。阪急じゃなく阪神だったかも。色白面長のきれいな人。あの人が直しをしとったんですかあ。蓋も半泥子?三本の内の一本?」と、どちらも懐疑的。 京都五条坂の赤坂氏は「確かに蓋、箱、支覆、全部私が手配した。蓋はどこへ出したか忘れた。楽山堂は調べたけどわからない。骨董は箱、中身、添状、みな入れ替わっていることが多いけど、まあそれはそれでよろしい、あまり詮索せんほうがええ」と道具屋さんらしいご意見。 定本の編著者はあとから(入院中なので代筆の葉書で)「楽山堂は西宮に現存だった。退院したら一度お会いしましょう」と言って戴いたけど、お会い出来ないうちに亡くなった。結局楽山堂の住所はおろか、名前さへ知る手掛かりはなくなった。 以来、何度もなんども西宮北口を彷徨した。いろいろ現地で聞き込みもした。交番にも聞いた。どうしても楽山堂の場所がわからない。もう亡くなってしまったのか。 一九九三年二月、半泥子の所に来ている手紙の総点検を思いつく。西宮で女名前、ただそれだけで段ボール何十箱も開けた。それらしき物四通。すぐ電話した。すぐ行った。着いてみると散々歩いた区画の道の向こう側、見えていた所。町名が変わるので手をつけなかった所。表札に小さく楽山とあった。 楽山堂さんと劇的な対面をした。半泥子がほれ込むに値する人物をそこに見た。お会いしたときで八十八九歳か、七十程の姪ごさんと二人暮らし。 このときのお話で分かったこと。「楽山堂」さんは半泥子の焼物の直しを一手にした人。半泥子のことを半泥子先生と呼び、大恩人だとおっしゃる。「慾袋」は終戦前後、京都の下鴨にいる時に直しにきた。あまりに割れが大きくて苦労した。注文と違ったけど、青海波の直しにした。昭和二十三年以降の早い時期に、結婚して住んでいた西宮へ再び漏れ止めにきた。直ったけれど半泥子は、もう返さなくてよい、やる、と。少ししたら大垣の矢橋さんが現れて、売ってくれ売ってくれと再三迫られて・・。 いろいろ伺った話の中から。 楽山堂さんは結婚するとき一旦直しをやめたが、半泥子から、自分のものだけでもドウシテモやってほしいと強くいわれ、その一言で今も漆仕事をやっている。 一九五七年五月の半泥子八十賀の祝い。半泥子から声がかかり京都仁和寺でお茶を呼ばれた。半泥子先生からいただいていた赤絵茶碗銘「龍田川」を「定本」に出品した。 一九九二年の正月頃、駅に張られているポスターに昔懐かしい「慾袋」があった。吃驚仰天し、用事もやめて家に飛んで帰り、八方手を回してポスターを入手し、東洋陶磁美術館へ半泥子展を見にいった。なつかしい志野茶碗「赤不動」(国立近代美術館蔵)にも会えた。 その日のもう一つの劇的な対面。アノ重いお水指、アレありましたやろ、あの大きいの、重いの・・。 アノ衝撃は忘れることが出来ない。出た瞬間真っ白になった。何秒間かは顔がヒキツッテいただろう。あとは涙が溢れて溢れて止まらなかった。畳の上にボトボト涙が落ちて広がっていった。気がつくと私一人が「大水指」の前で、屈み込み、俯いて座っていた。あれほどの涙を流した経験は私の人生でたった二回、祖母(半泥子の妻)が死んだ時とこの水指。水指とか花入とか、そんなものを超越した正に怪物、これぞ焼物、破格の物。昭和十五年、皇紀二千六百年の行事の時、楽山堂さんの御母堂が半泥子から貰ってきたという。楽山堂を再訪したのは翌一九九四年九月。今度は「慾袋」を持参した。そしてメガネも掛けない楽山堂さんから「慾袋」の塗蓋の裏にある、極く極く小さな《飛》の字を指摘され、飛来一閑の作です、と教えられた。病で倒れた半泥子に蓋を作る力はない。矢橋氏や赤坂氏の証言通り。定本解説の、蓋も自作、は消えた。 その日私は、厚かましいと思ったけれど、怪物の大水指の箱書をさせてください、とお願いした。そして気に入りの自作の水指を差し上げた。蓋もつけずに、箱も入れずに。 この訪問は後々、物の運命についてつくづく考えさせられる訪問となる。その訪問から四カ月後の一月十七日、大震災が西宮を襲うから。(つづく) |
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