−2− 古伊賀の名品「破れ袋」


検証

 箱の表には半泥子の字で、古伊賀写/水さしとあり、蓋の裏には、慾袋ト云/昭和己亥秋/八十二/半泥子花押 とあって昭和三十四年。字は心臓の発作で寝込んでからのもので、奇っ怪な葉書のコピーと基本的に同じ字体。水指に付いている黒漆の塗蓋は、手取りのとても軽い上品なもの。
 みんな見たけど、どこにも決定打がない。いかにも半泥子らしい作品だが、どこにも半泥子が造ったとは書いていない。半泥子はよく、箱に《自作》と書く。それもない。写しであると書いてはあるが、誰が写した、と書いていないのである。
 五島美術館の「破袋」を見てみよう。かつて展覧会で二三度は見ているが、これだけは簡単に手にとって見るわけにはいかない重要文化財である。今回写真ではあるけれど、「破袋」の三種類の写真をつくづく見た。桃山時代に生まれて大正十二年九月一日の関東大震災までの、スナワチ元々の姿。半泥子が見たと同じ物、スナワチ東京隅田河畔の藤堂伯爵邸で火に罹ったので金直しをした姿。その後高梨家を経て五島家に入り、そのどこかの時点でまた修理し直した現在の姿、の三種類。
 誠に威厳があって力強い。口作りも強い。これまた大割れも大割れ、至るところ直しのあらざる所無し、の塩梅。窯の中でヨクゾ分解しなかった、と褒めてやりたいような物。これを人に贈るに添状を付け、こんな名品は今後またと出ないであろう、と桃山の武将古田織部という人物は書いた。
 「慾袋」「破袋」二つの実物?をよくよく見た上で、また定本の解説に帰ってみると、いろいろ気になるところがある。半泥子は藤堂家で「破袋」を「一見した」(半泥子添状)のか「何度か見た」(定本解説)のか。果たして五島美術館の天下の重要文化財、古伊賀の水指「破袋」は名物(定本)なのか、名物と呼ばれるにはそれなりのトリキメがあって、あんな大割れ物が《名物》の仲間入りをしているのだろうか。
 半泥子の「慾袋」はホントに戦後作なのか。直し方は正確にいえば金継ぎじゃないし、伊賀土というより最も一般的な信楽土じゃないか。潰れかけていて“厳然”とか“火焔を耐えた”はちょっと苦しいんじゃないか。受筒も添状もついていた記憶はないし、アノすごく軽い蓋、本当に半泥子の作った蓋なのか。
 手紙にあった辰年は昭和三年、十五年、二十七年、三十九年。半泥子は九年からロクロを加藤唐九郎に習ったのだ。三年にこんなロクロが引けるわけがない。三十九年は既にアチラの世界の人になってしまっている。十五年と二十七年が残るが、戦後というのだから二十七年作となる。本当か。
 一藻は半泥子の俳句の先生で桑名の梶島一藻だけど、添状に出てくる金重陶陽も藤堂公も梶島一藻も、戦前の交際いが多かったんじゃないだろうか。とすると広永作?
 疑問は際限なく広がった。
 実際、千早耿一郎氏の労作、半泥子に関する唯一の本格的な伝記物「おれはろくろのまわるまゝ」をみれば、梶島一藻没年は昭和二十一年。手紙の差し出し年、二十七年説は消えた。したがって広永窯作説は消えた。益々疑いは深まる。慾袋はいったい誰の作?
 悩んだあげくコピーを下さった当のご本人、大垣の矢橋亮吉氏(九十一歳)に尋ねるにしくはないと、恐る恐る大垣のお宅に出掛けるとアッケナイ結論だった。
 楽山堂は阪急西宮北口の焼物の直し屋である。半泥子さんに言われて三十年ごろ、自分の家の直し物を持ってよく行った。「慾袋」は半泥子さんが楽山堂にやっていたものだ。半泥子さんの物なにかあるだろうと言ったら、押し入れから出てきた。箱も蓋もない。すばらしい直しがしてあった。分けてくれと盛んに頼んだがアカンという。なんべんも頼んでいるうちに半泥子さんが三十三年秋だったか、心臓で倒れた。そしたら暮れに葉書がきた。見舞いにと言うて楽山堂が半泥子さんに返したんだ。ヤラレタアと思った。すぐ見に行ったら、入札会をする、と床の中から半泥子。まわりは家族ばかり。安くいれたら床の中から、アカン落ちやんだ。一カ月後にも同じことの繰り返し。結局貰えなかった、と残念そうに語る矢橋亮吉氏。
 「慾袋」の蓋や箱や仕覆は、京都の赤坂政治氏がみな誂えたことも教えて戴いて、なにか釈然としないものを抱きつつ帰途についたのである。(つづく)


-1- 「花入を見舞いに貰いました」 -3- 現役の直し屋「楽山堂」