−1− 「花入を見舞いに貰いました」


「慾袋」をめぐる謎

 一九八一年頃だったろうか。京都の北村美術館の当時常務理事、現館長木下収氏が「大垣の伯父貴からコンナモノ預かってきましたっせえ」と言って一枚の小さなコピーを差し出したことから、この話は始まる。
 葉書のコピーと思われるその文面には、半泥子の代表作、伊賀水指銘「慾袋」そっくりの絵。一度見れば誰の目にも残る、「慾袋」の正面にある青海波の蒔絵直しも書いてある。回りには半泥子が病に倒れた後の字で「こんな花入を楽山堂から見舞に貰ひました。いつでもご覧に入れます」とある。「慾袋はわしが楽山堂で掘り出したものや、と言うとりましたっせー」と木下氏は付け加えるのだからアッケにとられた。
 出所は大垣の矢橋亮吉氏。半泥子が稀なる偉人として尊敬した大垣農工銀行の頭取、矢橋亮吉氏の名を襲名した、後の代の方。二代に亙ってのお交際いだ。
 どう考えていいのか。矢橋氏が掘り出したと言い、半泥子が貰ったと言う。「楽山堂」とはいったい何か。骨董屋だろうか。そうなると半泥子の代表作とされている「慾袋」が、半泥子の物ではなくなってしまう。
 問題が問題だけにウカウカ手は出せない。考え込んでいた。その間にも続々半泥子の展観がある。その度に必ず「慾袋」もでる。代表作扱いでポスターにも載る。カタログなら表紙に出る。
 そもそも「慾袋」とはどんなものか。自分の作陶や展観が一段落したので、少しづつ調べ始めた。
 まず各種解説から入った。生誕百五年展のカタログには、ただ「千歳山作」とあるだけ。「定本川喜田半泥子作品集」(以下定本)になると大層詳しく出ている。半泥子が「慾袋」に添えた添状の写真まで付いている。添状にある藤堂家の古伊賀とは、いま重要文化財として五島美術館に所蔵されている桃山時代の、有名な古伊賀の水指「破袋」のことだ。古伊賀の展観には外せない一品だろう。
 半泥子の添状の大意は、古伊賀写しの水指を作った。写しの本歌は藤堂家にある。これには古田織部の添状も付いていたが、関東大震災で箱共焼けてしまった。本体だけは無事残った。その水指を藤堂家で一見し、私が写しを三本作ったので一本は貴方に、一本は金重陶陽氏に、一本は今のところ家にあるが、近々藤堂伯に見せて箱書をお願いするので多分召し上げられるだろう。こういう荒土物は水が漏るので、受筒をつくって一緒に差し上げる。辰年の七月十三日 一藻詞兄宛半泥子花押。
 「定本」の解説(原文のまま)。古伊賀水指名物「破れ袋」の倣作。半泥子は旧藩主藤堂家でこの実物を何度かみている。いくつかつくったうち、これが気に入ったので、正面の破れを金継ぎさせた。蓋も自作。戯れに慾袋と銘す。火焔を耐えた伊賀土、厳然たるこの姿。広永作。
 ここでは広永窯作となっていて、基本的な所で生誕百五年展の解説と食い違う。半泥子の自窯での作陶は、戦前は千歳山窯、戦後は広永窯と決まっている。千歳山にあった窯を戦後、長谷山の麓の広永へ移したのだから。
 東京、熱海、大阪東洋陶磁、そして尾道と続いた巡回展の解説は《広永作》に変わってしまい、内容はほとんど「定本」と同じになってしまった。違いと言えば「厳然とした姿」と「ユーモア溢れた」の違いぐらいだろうか。「定本」の影響力は大きい。
 さて、肝心の実物。土は直径五ミリもあるような石交じりの信楽風の粗い土。熱に負けて狸の腹鼓のごとく腹がたっぷりと膨れ、膨れるだけでは足らないで正面が大きく焼き潰れている。そこに見事な青海波の金蒔絵が施されている。
 引っくり返してみると、その割れは底の方に入り込んで、大きく《大》の字に、しかし底の部分には金蒔絵は無く、漆で直してある。あちこちに入り込んでいる割れ目の直しからは、漆の漏れたような滲みが広がっている。
 口の両側には、なんでもない耳が付いている。釉を部分掛けしているが、焼きは基本的に灰かぶりの焼締めで、半分ほどはオキの中に埋まって焼けたため、ガサガサの焦げになっている。
 全体の印象を簡単に言ってしまえば、ハンナリとして、ゆったりとして、いかにも半泥子らしい物である。これが半泥子の作品ではない?(つづく)


-2- 古伊賀の名品「破れ袋」