−7− 伝わるものは伝わるんだ
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■萬吉郎に縁の深い人@ 半泥子も現地でお世話になり、萬吉郎と戦後も交友の続いた喜田幸三氏について。 喜田幸三ご本人は亡くなっていて、今回、北九州市若松区在住の奥様ハツヱ様にお会いした。養護学校の教頭をしている長男一家と暮らしておられる。明るくて暖かくてすてきなご家庭だった。半泥子については生前、幸三氏から聞いたことがない、とのこと。 萬吉郎が亡くなる平成三年八月二十四日ちょうどその頃、病床で喜田さんは萬吉郎の夢を見、亡くなったのかも知れない、とハツヱさんに云い、二カ月も経たない十月四日に小倉で亡くなった。 ハツヱさんの両親松尾さんは鶴橋(ハッキョ)に住んでいて、山田農場で取れた米をポンポン船で木浦に運んでいた。咸平と鶴橋は目と鼻の先。ハツヱさんは大正十二年鶴橋で生まれ小学校は鶴橋、女学校は木浦。女子師範を卒業して朝鮮人学校の教員をしていたら縁談話が来た。相手は山田農場の喜田さん。顔も見たことのない人だから嫌だったが、金同洙先生が再三まとめに来られたので結婚することになった。結婚は昭和十九年一月末、結婚式は萬吉郎の座敷。実質仲人は萬吉郎だが、奥さんが日本にいて単身赴任だから別に仲人をたてた。 喜田さんは滋賀県米原の出。学校を出てから渡鮮したが朝鮮語はうまかった。結婚して山田家の本宅に住んだ。隠居には萬吉郎が一人住まい。食事をよく届けた。事務所からは明るい声がよく聞こえてきた。 翌二十年二月長女を出産して十八日目に喜田さんに召集令状。敗戦でシベリヤに送られ、四年目にやっと帰ってきた。帰ってきたら深酒をするようになった。 ハツヱさんはどうしたか。ハツヱさんの両親松尾さんは朝鮮人に大変信頼が厚かった。使っていた朝鮮人が「衣服すべて用意するから戦争に負けた日本なんかに帰るな」と言ったという。しかし帰ることに決めたら家財道具全て、その人達が牛車に載せて木浦まで運んでくれた。喜田さんと仲の善かった山田農場の申正玉さんにも大変世話になった。木浦の港では朝鮮の人と、本当の泣き別れをした。 ダンベーという荷物運搬用のエンジンのない船に乗り込み、米を運んでいた時の船主吉田さんのポンポン船で引っ張って貰って、機雷を避けつつ一週間近くかかって唐津港に無事たどり着いた。「両親がいなかったら、とても日本に帰れなかった」とハツヱさん。そこまではよかった。 所が間悪し、二百二十日の台風で船が転覆。家財はほとんど駄目にした。一度海水に浸かると、いくら洗ったり干したりしても駄目。この荷物の中には萬吉郎が預けた刀、軸、焼物が入っていた。 戦後萬吉郎は二度ほどハツヱさんの引揚先、松尾さんの故郷、長崎の島原半島口之津を訪れた。また萬吉郎の次女登美子さんも一人で来たことがあると。登美子さん「ハツヱさんに赤ちゃんができて、赤ちゃん用の布など一杯持っていきました」。 今度の旅で、何処へ云っても名前の出た人に申正玉さんがある。ハツヱさんからも出た。そこで「黒い犬と写っている写真が有ります」とお見せすると「この犬、焦げ茶色デス」。 またもう一枚の写真、昭和13年?、萬吉郎が申正玉を招き、日本を案内したときの物。江島神社とあるので鈴鹿の江島神社かと思って出掛けてゆくと、本殿はすでに平成五年に建て替えられていた。神官に伺うと「以前の屋根の形とちょっと違うようです」「以前の建て替えは?」「昭和十五年です」。ますます難しい。そこで得意の虫メガネ。本殿に張り巡らされた幕、かすかに紋が見える。「やっぱり違いますね、江ノ島でしょうね」。 萬吉郎、ハツヱさんの両親松尾さん。此処に朝鮮人に好かれた二人が登場した。しかし残念ながら、大方の日本人がソウデハなかった。ハツヱさん曰く「近所の◎◎さんなんかは袋叩きにあい、ホントにひどい目に遇ったと聞きました」。私はかねがね不思議に思っていたのだ。敗戦が決まって二カ月も経った十月八日、萬吉郎が敵地の真っ只中で、家や土蔵や墓の写生をしている事を。しかし、ハツヱさんの話を聞いて、敵味方の中ですら人間同士、伝わる物は伝わるんだ、ということを感じて強い感慨を持った。せめてそれぐらいの希望はないと人間、やっていられない。人間、弱い立場の人にどう対するか、でその人の真価は決まる。 山の斜面、それも相当高いところにある喜田さんの家の目の前は洞海湾、もと八幡製鉄いま新日鉄。その遥か向こうが帆柱山。これが又朝鮮と因縁が深い。 ハツヱさんのご長男に送って戴いた「八幡の歴史」によると、四世紀末から五世紀の始めにかけてのこと。十四代仲哀天皇の妃・神功皇后。「新羅を攻めよ」との神のお告げに従い、男装して水軍を率い、新羅を目指して名島から出発した。「風の神は嵐を起こし、海の神は波をあげ、海中の大魚ことごとく浮かんで船を助けたので櫓を漕ぐこともなく、たやすく新羅に着き、船について潮は遠く国の中まで入って行ったので、新羅王は、おそれてただちに降参した」とある。帆柱山は新羅征伐に出掛けるとき、船の帆柱用材の杉を切ったので帆柱山。今、皇后杉の名が残っているという。 それにしても元寇は鎌倉中期1274と1281、中国は侵入に失敗した。秀吉の朝鮮出兵は1592と1597。十三〜十六世紀、倭寇が中国沿岸、朝鮮を荒らしまくった事は有名だ。長い歴史、中国、朝鮮が武力で日本を制圧したことは、まだ一度もない。(つづく) |
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