−4− 作品展を初日から人任せ
■樋口由太郎さんのこと大正末か、最晩年の初代萬吉郎と家族らの記念写真がある。背景は倉庫。これを虫メガネでよくよく見ると、倉庫の入り口に日の丸と海軍の旗を組み合わせた商標、ライジングサン、石油取扱店という一枚の看板が掛かっている。これが萬吉郎の姉婿、樋口由太郎がやっていた樋口商店の看板。中国では天津、朝鮮では木浦や麗水や平城にも支店があり、山田農場の一年分の売上とタンカー一雙の売上とが一緒だったという、それほど大きな貿易商だった。 初代萬吉郎も樋口由太郎も滋賀県の出、近江商人。樋口由太郎伝という冊子の中に、由太郎は昭和四年に木浦の商工会議所議員に当選、初代萬吉郎が亡くなったときは、男泣きに号泣せり、とある。また萬吉郎は最新式の精米機を備え、一粒選りの白米を生産し、主として阪神地方に移出せり、とある。また全羅南道農務課調べとして、山田農場は水田四百七町歩、畑百七町歩、山林と合わすと一千町歩とあり、坪で云っても始まらないが三百万坪(わが家の辺り、水田一町歩あると大農家と)。余暇には庭園造り、書画の鑑賞、囲碁、謡曲を嗜む、とある。これは初代萬吉郎のこと。 ■半泥子渡鮮寸前の行動 旅から帰って五日目、半泥子が朝鮮に渡る寸前の事が出ている新聞が手に入った。 昭和12年5月28日、半泥子が釜山に着いた朝の岡山合同新聞。写真入り四段、約二千字。見出しは「芸術的な焼物」三つの標準がある、無茶法師座談会。読むと《朝鮮への製陶行脚の途にある泥仏堂半泥子こと第百五銀行三重県農工銀行頭取川喜田久太夫氏の作品展観は27、28の両日岡山市城下禁酒開館楼上で開かれたが・・うんぬんと有り、展観の前日26日には40名が参加して無茶法師の陶談を聞く会を催した》とある。 三つの標準については触れない。自分の作品展は初日から人に任せておいて会場に居なかったことになる。初日の朝、クロチャンこと愛妾中西千賀と汽車にのり、下関へ向かい、関釜連絡船に乗り28日早朝釜山、夕刻には咸平の萬吉郎宅に着いていた。前回八月二十五日の本紙に書いた通り、半泥子は窯焚きの一番大事な窯止めの時に現場にいない人だから、展覧会に初めっからいなくても全然不思議ではないのだが。 ■三日窯 ハビョリの爺さんに三日で窯を直せと云ったら、四円クレと迫られ、うまく焼けたらボーナス一円ヤル、で決着したハビョリ窯。その窯直しとそっくりの窯を築いている半泥子の写真が出た。裏を返すと、日本一の洋服仕立て人、天下の奇人ともいわれる上口愚郎宛の半泥子の葉書。朝鮮から帰った翌年の昭和十三年、半泥子はハビョリ窯そっくりの窯を千歳山に築いたのだ。茶碗で百五、六十しか入り申さず、と書いたハガキも何処かで見た記憶がある。もちろん朝鮮の人がやったように、半泥子も型枠無しで築いた。 「三日窯を築いてる半泥子をお目にかけます。眺めても、焼いても(タベテモおいしいかも分りません)イイ気分の窯です。何れ作品は御来山の折に進呈します。◎テニスズボンは少し短く願ひます。◎白リンネル上衣とズボン二着願ひます」。 ■日韓の懸け橋 浅川巧 1891山梨生まれ、兄伯教と共に熱心なキリスト教徒。伯教は半泥子が「朝鮮の焼物の神様」と呼んだ人。李王家博物館が京城にあることを知り1913年朝鮮に渡った人。巧は、その兄を追い、朝鮮総督府の林業技師として渡韓。仕事は堪能で朝鮮語にも通じていたが、同時に「朝鮮に住むことに気が引ける、済まない気がする」人でもあった。「ほとんど全ての日本人が憎しみの的であるときも、住む町の全ての朝鮮人から愛せられ、慕われて、その名を知らない者はなかった」 柳宗悦らと朝鮮民族美術館設立、館長に就任、人道主義者、博愛主義者、民衆芸術愛好家。チマチョゴリを愛用して暮らす。1931年四十歳で没。多くの朝鮮人に柩を担がれ、彼らの号泣の中で、日頃愛用のチマチョゴリを身に纏い、韓国の土となった。どこまで韓国の植民地化にきちんとした意識が有ったかは疑問、と見る向きもあるが、日韓懸け橋として貴重な存在。ソウル忘憂里の地に墓があり、記念碑が韓国林業試験場一同の名で建てられ、現在、韓国林業試験場の管理下に置かれる。(高崎宗司編浅川巧全集草風館など関係書より) 田内千鶴子(尹ユン鶴子) 「木浦の母」と言う題で映画化された孤児院「木浦共生園」の田内千鶴子。朝鮮人を夫としていたが敗戦で帰国。しかし孤児院をやっていた夫の元へ再度渡韓。 1963年大韓民国文化勲章国民章、1965年第一回木浦市民の章、名誉市民。1967年日本政府紫綬褒章。1968年10月、木浦初めての市民葬にて葬られる。「共生園」は現在、娘の尹清子さんに受け継がれる。 曽田嘉伊智 韓国で一千人の孤児を育て「孤児の父」とよばれた人。浅川巧の葬儀で聖書の朗読をしたメソジスト派の伝道師。1951年3月ソウルで死去。大韓民国弁護士会、大韓民国赤十字社など、19団体による連合葬にて葬られる。 上の三人とはちょっと趣が違うが、浅川伯教。朝鮮の窯跡調査六百余カ所。李王家博物館に寄付した朝鮮の陶磁器六千点余、と言われる。略奪じゃなく、きちんと返してくる。こういう日本人が残念ながら少ない。(つづく) |
| -3-窯跡には褐色瓶のかけらだけ | -5-農夫の持っていた焼物が数百万 |