−2− 墓が残った理由に熱い感慨


韓国訪問A

■墓発見
 墓があるらしいと云うのを聞いても実感が湧かない。特別足を速めるでもなく、でも追った。追いかけて小さな林を抜けると深いススキの中に墓があって、はや山田さんが取り付いていた。「山田翁之墓」。
 墓の在りかを教えたのは崔炳斗さん。萬吉郎の墓を探している日本人がいる、という情報があっと言う間に伝わり、わざわざ教えに山に登ってきてくれた。ヘバッテ一人取り残されている堀井君をつかまえて「イルボン、イルボン」といい、堀井君が何か叱られているのかと思っていると「サンジョン、サンジョン」と言って、手のひらに漢字で《山田》と書いたという。イルボンは日本人、サンジョンは山田。人生なにが幸いするか分からない。以後事あるごとに堀井君曰く「私があそこにいたから・・」。
 ここで八月二十八日掲載の挿絵、最後の墓参りのスケッチを思い出してほしい。たしかに夫婦の墓が並んでいる。ところが現実には一つしかなかった。茂っていたけど回りはあらかた探した。奥さんの墓だけ壊されるということは、まず考えられない。朝鮮にある日本人の墓はほとんど残っていない、というのが定説。恨み骨髄、みな壊されてしまった。なのに昭和三年没、初代萬吉郎の墓だけが残っていた。
 日本は韓国を植民地にし、搾取し、迫害し、威張り散らしてきた憎き奴、そして戦争に負けて逃げ帰った負け犬。戦前は排日運動、戦後は反日運動が盛んな韓国で、萬吉郎の墓だけ残る。それにはそれなりの理由がなければならない。
 午後偶然出会った、金甲源という八十二歳の大変元気な老人が答えを出した。山田潤二さんに向かって「潤ちゃん、これだけは知っておかなきゃいけない。戦後山田さんの墓を守ったのは鄭致南の孫、鄭銀奉だ」。その達者な日本語と大声に全員度肝を抜かれた。
 鄭致南は半泥子がたいへん世話になり、「朝鮮窯焚きの記」の中で、加藤清正のように忠義の人と書き、大いに褒めた人。当時十二、三歳の孫と一緒と書いている。その孫がここで出て来た鄭銀奉。萬吉郎の墓を守ってくれた人がいた。フランスでナチの墓を守った人がいたらどうだったろう。熱い感慨が走った。山田家の墓が残った理由として、こういう人物の存在が無関係とは到底思われない。萬吉郎との関係も忍ばれる。
 金甲源はこうも断言した。「これも知っておかなきゃ潤ちゃん、山田萬吉郎を知っている咸平の人間で、萬吉郎を悪く言う人は一人もいない」。新しい家の鴨居には萬吉郎の写真が何枚も飾ってある。それも昭和三年、初代萬吉郎の葬儀の写真。「山田さんの手紙は百通以上ありますよー。全部大事に蔵ってありますよー」とも言う。
 山田農場の支配人だった田中辨次郎、滋賀県八日市の家とは今でも行き来が有り、辨治郎の娘婿の不幸の時にはお悔やみに日本へ行った。潤ちゃんとこもお悔やみに行ったけど潤ちゃんはいないし、年賀状も出してるけど返事もこない、とちょっとお灸を据えられた。なにしろ元気で、豪快で、朗らかで、情が厚い。
 金甲源との出会いのきっかけを作った人は町中で出会った、後述する鞠吉喚。
■コレクション発見
 萬吉郎の膨大なるコレクション。万に及ぶと思われるコレクションの内の約百点が奇跡的に出た。コレクション発見のきっかけは、またもや金甲源。この人からドエライ話がポロッと出た。萬吉郎の寄付した高麗焼きが小学校にたくさんあるという。ほんとだったら大変な事だ。潤二さんはエーッと云うし、皆ホーッと最初は驚いたけれど、寄付していたとしても戦前のことだ。少なくとも五十二年は経っている。落ち着いて考えてみれば可能性の少ない話だ。
 でも旅の四日目だったろうか。咸平の最後の日に小学校へ向かった。墓参りの《ついでに》小学校に《寄るだけ寄ってみよう》と決めたのだ。戦前寄付したものが、そう簡単に残っている訳がない。校舎だって建て替えているし、朝鮮動乱では北朝鮮に占領されてるんだから。
 会議をしていた校長先生を引っ張り出したのはいゝが、「山田さんの寄付した焼物はない」と頭から来た。ソウダロウナアというのが一同の正直な感想、残念がる人もいない。皆がサッパリ諦めていると、戦後、高麗焼きの復元を目指して窯を焚いて失敗した人がいる。その模造品でよかったらお見せしましょう。で、見に行ったわけです。
 二階へ上がると廊下に展示ケースがズラーと並んでる。金さんが指さして、あれっ、セステヤ!
 半泥子が貰ったのと同じドラ鉢がケースの上に裸で置かれてる。それも三本。エーッとかアレッとか、みな口々に。奥には刷毛目の茶碗なんかゴロゴロ。奥にまた二本セステヤが。でも、まだ萬吉郎の寄付した物とは断言できない。コレ学校が後から買ったってことないでしょうねえ、と誰に確認を求めるでもなく私は呟いていた。
 そのうちはっきり答えが出た。陶磁器に番号の張札があり、父の字です、と潤二さん。ざっと数えて百点、大方が高麗、李朝初期。高麗でも青磁の奇麗なものではなく、李朝は刷毛目が中心、あくまでも務安地方を中心に萬吉郎のところへ直接持ち込まれた物ばかり。これが模造品かあ、と一同口をアングリさせて、呆然、陶然として二度目の墓参りをした。
 後日、光州博物館へいったら、学校の展示品中最大の物、鉄で草文がサラッと書いてある、四十27もあろうかという灰釉の壷と同じものが写真によって展示されており、九九〇年とあった。博物館ではセステヤに期待していたのだが一点もなし。セステヤというのは、半泥子が貰ったものと、この小学校にある五本以外、私はまだ見たことがない。(つづく)


-1-家屋敷、跡形もなく -3-窯跡には褐色瓶のかけらだけ