−1− 家屋敷、跡形もなく


韓国訪問@

 今を去ること六十有余年の昭和十二年六月、吾祖父川喜田半泥子が、当時日本の統治下にあった朝鮮に渡り、朝鮮の西南端、全羅南道務安地方で大農場を営んでいた山田萬吉郎の世話になり、電気も電話もない、奈里と言う辺鄙の地の山田農場の事務所に二週間滞在し、すでに廃窯になっていた荷苗里(ハビョリ)の窯を直させ、茶碗を中心に三百個、一窯焚いてきた経緯については、本年八月二十四日から二十八日までの本紙の連載に書いた通りである。
 その時の世話役、当時三十六歳、咸平という村に住んでいた萬吉郎は、朝鮮陶磁器の愛好家研究家であると共に、文筆一筋の人。そして誰に対しても思いやりの深い、無類の人望家でもあった。半泥子もその貴人性を「侯爵」と呼び、人物、愛陶家振りを絶賛し、二人なら十日や二十日、話だけで過ごせると書き、また萬吉郎も半泥子を偉大なる人物として尊敬し、多くの教示を得た、自分の知る限り陶磁器界第一番の人物である、と書き残した。
 しかし萬吉郎は、敗戦という歴史の波に呑み込まれてゆく。昭和二十年十月八日、現地で父母(初代萬吉郎)の墓参りを済ませスケッチし、住居をスケッチし、焼物の一杯詰まった土蔵を拝んだのを最後に、農地三百町歩、山林七百町歩等、全資産を朝鮮に置いて、リュック一つで日本に逃げ帰ったのであった。津文化協会の講演会でその話をした二週間後の六月半ば、まさに半泥子が訪れたと同じ時期に、当時半泥子が現地でお世話になった金同洙氏のご子息、ソウル在住の金容石氏を案内人に、萬吉郎、半泥子由縁の地に足を踏み入れた。一行は日本から、萬吉郎息山田潤二、三重県立美術館の森本孝、津市議会議員・津文化協会の小倉昌行の各氏。ビデオ記録担当の青年堀井功介君、私と秘書堀田光子の六名。韓国からは金容石氏。陰の参加者として、事前に木浦市役所、咸平村役場に手配をしていただいた昴学園講師の裴和徳氏。
 半泥子は関釜連絡船で釜山に、汽車で大田経由鶴橋()下車。荷物を軌道にのせ、萬吉郎の迎えの車、英国製オースチン小型車で咸平の萬吉郎宅に入ったが、私たちはソウルに飛び、金さんに会い、飛行機を乗り換えて木浦に飛んだ。木浦は当時半泥子に、街の真ん中にまで岩山がある汚い港町と書かれたが、産業的には韓国でも中々重要な港町。
 今回、旅の基地として三泊もした木浦。かつては日本人が多く住み、対日感情の大変悪い町であったと観光案内書にある。案内書に実名が載るほど悪い日本人がいた。日本が統治していた時代に起こった反日運動3.1事件(大正八年)当時で日本人が四千六百人、終戦の年(昭和二十年)に二万人。日本風の家屋がそのまま残っているこの町を基地にして、一行は毎日探索に出た。
 まず咸平村に乗り込んだ。萬吉郎の家、土蔵。引き揚げるとき大事な陶器を埋めた畑。呆然とするほど何もない。アッケナイ。国民福祉会館という大きなビルが建っている。覚悟はしていたものの・・。萬吉郎が惚れきったがゆえに特別に桐箱に入れ、最後まで咸平に残し置き、結局リュックに入らず、泣く泣く埋めた刷毛目の深い茶碗。もしかして何処かにその畑が・・。その望みも断たれ、山田さんは甲子園の野球少年のごとく土を拾う始末。みなウロウロするばかり。回りは警察、公民館、郵便局、電力会社など一等地。一句訛マッテ詠みました。「家もなく土蔵もなくて完敗(咸平)す」萬吉郎の家にたどり着くまでに、金さんは三軒の家に寄った。金さんが小学校に通っていたとき住んでいた親類の家もある。萬吉郎の名前が出ても反応がよい。どんどん情報をくれる。咸平初等学校の裏に日本人の墓がある、との話がその親類の家で出た。
■墓探し
 萬吉郎の家屋敷がまったく駄目だったので、車は小学校に向かった。学校違いが一つあって二つ目、校門の横にドエライ欅?の立つ、広い運動場を持った立派な学校に着いた。昼飯時である。飯にしましょうか、の声も聞こえているのかいないのか金さんは、井関さんという日本人校長の時代に、この学校で教員助手をしていた、といいながら学校の中を素通りし、裏山にガンガン登っていく。堀井君はビデオ撮影で遅れる。早くもヘバリ気味。初の外国旅行、加えて慣れないビデオ撮りで緊張し、山へ登る前にすでに疲れてしまっていたのである。
 先頭の金さんと山田さん、ちょっと遅れて堀田がどんどん山に登っていって見えなくなってしまった。仕方なく森本さんと私とが山の中腹の別れ道に別々に陣取って、堀井君の登って来るのを待つ。ところが来ない。どうしていたかと云うと、はあはあ、へえへえ、完全にバテテ、畑に座り込んでいた。
 金さん達は山のうえの方から、グルッと回って降りて行ってしまった気配。後で聞けば、野良仕事をしていた女の人が上には日本人の墓はないと言ったから降りたんだそうだ。森本さんと私は動けない。なぜなら堀井君が来ないから。
 そのうち、下の方から盛んに呼ぶ声がするので耳を澄ますと、墓が見つかったようなことを言っている。急いで山を駆け下り森本さんを呼び戻していると、麦藁帽子を被った地元の人と金さんと山田さんが、朝鮮人の饅頭墓のある畑を抜けてゆく。ビニールハウスのある丘の中腹を横切ってゆく。墓がある、というのだ。本当だろうか。
(つづく)


-2-墓が残った理由に熱い感慨